すごい記事をみました。猿ヶ森砂丘が日本一でかい砂丘?本当?、というお話。めちゃくちゃ分かりやすいし、最終的に砂丘の話を飛び出してインターネットの話になっているのもいい。この記事は完全に便乗した内容です。何かといえば、記事中に登場する屏風山の話です。
この記事では、津軽地方、そして屏風山における農業の歴史と、それに伴う砂との闘いを取り上げます。屏風山についてはC99で頒布した「は立のお派なし」や同名の記事でちらっと触れていましたが、屏風山単独の記事は生やしておらず、またインターネット上にも分かりやすくまとまった話があまり見当たらないため、丁度いい機会でもありました。
① 屏風山、どこ?
みなさんご存じ津軽平野は、北東を津軽山地、南東を八甲田火山群および十和田火山、南を大鰐山地、南西を白神山地および岩木火山によって限られた東西5~20km、南北約60kmの細長い沖積低地です。上流から下流へ藤崎町以南の扇状地域、板柳町から五所川原市の自然堤防域、五所川原市北部から河口の三角州域で構成され、臨海部には後期更新世(126,000~11,700年前)に形成された段丘とそれを覆う砂丘が発達しています。この砂丘を我々は「屏風山」と呼びならわしているわけです。
さて、屏風山が砂丘であるということは分かりましたが、広く一般にイメージされるところの「砂丘」とはかなり異なる景観になっているため、なかなか砂丘とは気づかれないように思います。沿岸部にはマツやスギの林が延々とあり、少し内陸に入れば湿地や畑地が広がっているため、砂砂砂砂砂……といった感じのインパクトある風景はほとんど見ることができません。
ドでかい砂場としての「砂丘」が見たい人を志多見砂丘に連れていったら怒られが発生しそうなのと同様に、屏風山に連れていっても怒られが発生すると思います。
② 弘前藩の新田開発と屏風山
「は立のお派なし」と重複する部分もありますが、屏風山と新田開発は切っても切れない関係にあるため、ここでも話す必要があります。
②-1 小知行派立
津軽平野に広大な未開墾地を擁していた弘前藩にとって、新田開発は最も精力的に取り組むべき事業でした。
初代為信、二代信枚の治世においては、藩の創業期ということもあり、大規模な開発は行われていません。小知行派立(こちぎょうはだち)政策を取っており、開発者に新田の一部を与えて小知行(約30石)ないし新知士(70~100石)として士分に取り立てていました。
二代信枚は屏風山沿いの亀ヶ岡*1に築城し、新田開発の前進基地とする計画を立てます。築城奉行は大湯彦右衛門、森内佐兵衛が務めました。
亀ヶ岡築城は一国一城令に反するとして取り止めになりますが、大湯、森内の2人は建設済みの堀を溜池として利用し、開拓民を300軒ほど集めた新田村*2を開きました。寛永元年(1624)に2人は「大湯村町派立」を命じられています。
しかし、湿地を開いたため排水が悪く、イネの生育にひどく難儀したため、みな散り散りに離村し、この開拓は7年で終了してしまいました。
②-2 御蔵派立
大湯村の失敗が示すように、津軽平野北部の三角州域は人住みに絶望的な環境であり、小知行派立のような小規模な開発では全く歯が立ちません。藤崎*3~妙堂崎*4~山田*5より北のビショビショ・ゾーンにはほとんど村がなく、天正5年(1577)に為信が訪れた広須*6の他、屏風山に入って菰槌*7があるのみでした。
広大な湿地帯を開くため、四代信政は寛文元年(1661)より御蔵派立(おんくらはだち)、つまり藩の直轄方式を採用することとしました。①岩木川の堤防づくり、②用排水堰・田光沼排水路の整備、③屏風山の植林を新田開発とともに行う総合事業です。①②の解説は以前生やした記事や同人誌を読んでもらうことにして、ここでは③屏風山の植林を見ていきましょう。
②-3 砂に苦しむ人たち
亀ヶ岡や大湯より北に、平滝*8という新田村があります。ここは30軒で開拓をスタートしたものの、海風激しく耕作に不便であったため、4軒を除くすべてが離村しています。26軒が村を離れてしまうほどの海風とは、一体どのようなものだったのでしょうか。どうやら、OUCHIや住民が風に飛ばされていったわけではなさそうです。
日本海からの西風は、まずドでかい砂場を経由します。ここで大量の砂を巻き上げた風は、津軽平野北部へ到達。砂嵐のようにして平野部を吹き荒れると、砂が田畑に降り注ぎ、作物を埋めてしまいます。これに岩木山からの吹き下ろしが追い討ちをかけ、作物が枯死してしまう状態でした。「西風一度起れば風砂塵煙遠く数里に及ぶ」たいへん。新田開発には湿地帯の用排水改善に加え、海岸からの飛砂害を軽減する必要もあったというわけです。
②-4 屏風山植林
天和2年(1682)、野呂理佐衛門らに命じて植林が始まりました。幅4km、延長40kmに亘る砂丘に松や杉などを植え付ける事業です。まず2万330本を植え付け、55年後の元文2年(1737)には86万2200本に達しました。
砂地への植林は一筋縄ではいかず、ハマムギやススキの混植や苗ひとつひとつに風よけを作る*9など、様々な努力や研究により成し遂げられたものです。この林が海岸からの飛砂や岩木山の吹き下ろしを防ぐ様子が屏風を巡らせたようであるとして、屏風山と呼ばれるようになったとされています。
植林技術の向上により順調に植え付け本数が増加したかと言えば、全くそうではありません。度重なる大凶作で、屏風山の木はごっそり伐られてしまいました。
津軽地方の凶作は同じ青森県内の南部地方に比べ回数こそ少ないものの、長続きする傾向にありました。一度凶作が訪れるとなかなか好転せず、農民らは何もかも獲り尽くしてなお生活できない、地獄のような日々を送ることになります。
例えば、天明3年(1783)には、金木*10、飯詰*11、広田*12、広須、木作(木造)の人々が秋田方面へ100人/日ペースで離散しています。同年11月には木作で犬の吸い物が流行したため犬を盗み売りする人が激増、木作村近辺の犬が絶えてしまうという事件もあり、さらに12月になると楽田*13、家調*14、繁田*15で人食いがあるなど、本当にめちゃくちゃです。
十代信順は天保年間の凶作中にねぷたや花火を催させてそれらを見物するなど、藩の財政再建策をぶち壊しにしています。すごい。
苦心して植えた木々も、燃料用のほか、材木を売って食糧を調達する費用に充てるため、農民たちが盗伐してしまいます。
藩は「若し盗伐木の悪業をなしたる者あらば是を処するに斬罪を以つてし、而して該首を樹木養成の肥料に用いん」とアナウンスするなど、厳しく管理しようとしていたのですが、生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、そんなことは関係ありません。凶作の間に屏風山はすっかりはげ山と化すため、植えては切られの連続であったようです。
現在ある屏風山保安林は安政2年(1855)から明治7年(1874)にかけて「新仕立山」に行われた177万9400本の植林により概ね形成され、さらに国や県の事業として育成が続けられているもので、現在に至るまで津軽平野の農地を飛砂から守るべく植林が行われています。
③ 国営屏風山開拓建設事業
ここまで、「砂と暮らす」ための闘いを見てきましたが、今度は「砂に暮らす」ことを目指した闘いを見ましょう。砂地以外をだいぶ拓ききってしまった後のお話です。
津軽地方における農業は内陸部でも厳しい条件であるのに、屏風山で農地開発をするとなれば極めて困難ということになっていました。しかし、屏風山には草木が繁茂しており*16、砂地での農業は地域住民に代々夢見られてきたのでした。
現在、屏風山を代表する産品にはスイカとメロンがありますが、初めに屏風山で栽培された作物はスイカです。そのブランドを確立し、「スイカといえば屏風山」と言われるようになるまでの歴史を知る必要がありそうです。
③-1 スイカができそう
昭和33年(1958)に屏風山整備委員会が発足し、翌34年に屏風山整備の調印がなされると、国有地3,710haは木造町・車力村に売り渡されました。
国や県による調査ののち*17、昭和47年(1972)に国営屏風山開拓建設事業として着工し、青森県農業試験場砂丘分場が設立されると、いよいよ砂地への畑地造成が始まります。
時を同じくして、鰺ヶ沢普及所*18による目内崎*19でのスイカ試作がうまくいっていました。これが屏風山近隣の住民に刺激を与え、吹原*20、出来島*21、館岡*22を中心にスイカ栽培が始まりました。
③-2 砂地でスイカを作るには
普通土壌と砂丘畑では、やり方を変えてスイカを栽培する必要があります。青森県農業試験場砂丘分場では、砂地が大半を占める屏風山で作付するべく、様々な研究が行われました。
灌漑や施肥は、特に工夫する必要があった点です。屏風山では、従来のスプリンクラーによる散水を行った場合、風によるムラが多く、さらに砂の粒が粗いため水が横方向に浸透しないという問題がありました。そこで、株元にチューブを付設して点滴灌漑するドリップかん水の開発を行いました。これは開畑の区画に合わせて最大長を150mとしたもので、液体肥料の混入器を組み合わせることでかん水と施肥を同時に行うことも可能になっています。
ところで、砂丘畑では土壌の酸度が高い場合が多く、和らげるために石灰を多量に投入することがありますが、屏風山では比較的少量の投入で済んだ*23ようです。
一方で、屏風山の気象条件は、スイカ栽培の味方になりました。
屏風山を主とする西津軽郡のスイカは、常盤*24や田舎舘*25などの南津軽郡にある産地と比較して、収穫時期が早い特徴がみられました。南津軽郡の位置する内陸部では、夏の気候自体はスイカに適していましたが、雪解けが遅いため、育苗や定植が遅れてしまいます。
対して屏風山は対馬暖流の影響を受けて早く暖かくなり、積雪量そのものも少ないことから、春の農作業を早くから行うことができたのです。さらに、砂丘畑は普通土壌に比べて地表面が高温になりやすく、成熟日数を短縮することができました。気温の日較差が大きいことも糖度の上昇に繋がり、高品質なスイカの栽培を成功させました。
土壌環境への対策や栽培に適した気象条件に加え、越水*26など、屏風山南部の普通土壌では古くからスイカが生産されていたこともあり、屏風山全体でスイカやメロンの産地化を進めることとなったのです。屏風山を縦貫する道路につけられた「メロンロード」という愛称からも、これらの栽培が盛んに行われていることが窺えます。
④ おわり
砂丘で砂を見てもよし、見なくてもよし。
砂丘に来て砂が見えなかったら、ガッカリしてもよし、しなくてもよし。
砂が見えなかった時に、昔の人が闘ってくれたんだなぁ、と嬉しくなってもよし。ならなくてもよし。
参考文献
青森県農業試験場(1984)『砂丘に挑む : 設立10年のあゆみ』、青森県農業試験場砂丘分場
青森県立郷土館編(2019)『ひらく・つくる・みのる : 青森の湿地と稲作のはなし : 展示図録 : 令和元年度青森県立郷土館特別展』、青森県立郷土館
東北建設協会編(1999)『津軽平野と岩木川のあゆみ : 岩木川治水史』、建設省東北地方建設局青森工事事務所
盛滝春(1972)『社会科教科書と津軽の歴史』、西津軽郡教育研究会社会科部
(終)
2023/1/20修正:「明治7年(1974)」→「明治7年(1874)」