キュウリの血と肉

モッス・カプロョモール・エニスポラ

は立のお派なし

こんにちは。プレイグインクで2100年くらいまで何もせずにいたらゲームが壊れ、最初の画面に無の選択肢が出るようになってしまいました。

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この記事はVery普通!お派なCCなので、特にプレイグインクは関係ありません。

 

 

最近追いかけている地名の話をする必要があります。それが

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派。
立がついたりつかなかったりしていますが、大体の場合「はだち」と読みます。これが100~400年前の青森県の左半身にしこたま生えており、以下がその一部。

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現在の地図も温湯派(黒石市)や下派立(つがる市)などが見えています。

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何者?

派立は一体何者ですかなぁ?正体は新しお米発生処のお名前です。
こやつらのお仲間。

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が、弘前藩なにもかもの開発を「派立」と称したため、田んぼでなくても派立の文字が見えています。


派立の種類

弘前藩の新田開発は、小知行派立(こちぎょうはだち)と御蔵派立(おんくらはだち)の2つに分けられます。

小知行派立

小知行派立は在郷の下級武士やようやっとり農民にぼんやり場所の開発をお願いマ(ッスルorイメロディ)して、30石程度の知行を与えるやり方です。小知行として取立てられたところで、武士と農民の中間みたいな位置に収まってしまっていたようなアレがあります。マイメロが小知行派立したときのオトメロディー武士だけど 武士じゃない お願いね マイメロディ

ところ

開発する場所はおおかた本村近辺の耕作適地で、あんまり無理をしません。小知行とゆかいな仲間たちだけの力では大規模な開発ができないので、イネの生やしが険しい所には漆の林をつくったり(漆新田)、ソバやBIG根の畑をやったり(地子新田)していました。五所川原市に杉派立という地名が残っていますが、ここは当時杉漆新田と呼ばれており、その名の通り杉と漆を植えて暮らしていたようです。

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人を植えてもよい

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町派立という行いが存在し、ドデカタウンでは青森板屋野木(板柳)が町派立で作られています。また、藤崎では伝馬派立が行われ、御伝馬新田と名づけられました。馬を植えるもOK新田です。ちなみに弘前城も1603年に町屋派立をしましょ~よ!と津軽為信が大声を出して発生していますが、これは藩の事業であり、小知行派立ではないはずです(どちらかといえば後述の御蔵派立に近い)。

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拳を生やしたら、拳派立になるかも

御蔵派立

小知行派立は元和年間(1615~1624)にメニメニ新田発生ですが、じきに限界が見えてきました。

ビ所ビ所

たとえば、岩木川下流域のビ所ビ所(ともいう)はあまりにもビショビショなので、人間の腰まで泥に浸かって耕作どころではありません。いまクソデカシティであるところの五所川原もビショビショです。ビ所川原です。十三湖という湖に土砂が入って湿地化した土地なので、人を住まわせる気が一切ありません。実際、江戸期に入るまで妙堂崎より北側の低湿地には村のひとつもなく、小知行派立で広須が開かれたのみです。

さらに、西側に砂丘が広がっており、所によっては巻き上げられた砂が作物を覆って見納めにしてしまいます。冷害も例外なくありますから、この人住みド厳し地域では大湯町村や菰槌(こもつち)村など、本当に数少ない土地でしか小知行派立がうまくいきませんでした。そのうまくいった少数ビレジの中でも、大湯町村は10箇年計画の7年目に農民が岐阜゙U阜゚しておしまいしています。

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もうダメだということで、寛文2(1662)年から藩直轄のトンでもビ所ビ所ADVENTUREが始まることになりました。これが御蔵派立です。

トンでもビ所ビ所ADVENTURE

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トンでもビ所ビ所ADVENTURE

 

御蔵派立では何事発生ですか。LARGEST新田の木作・広須新田を見ると良さそうです。

岩木川の堤防づくり

岩木川はお元気ちゃんのあっちゃこっちゃリバーであり、支川の十川や飯詰川、相川(現在は廃川)とともに流路をたびたび変えていました。特にビ所ビ所は岩木川の勾配が緩く、急勾配の上流部からの水が一気に放たれるので洪水がしこたま発生しています。堤防の両側に柳を植えたり堀替えたり、延宝2(1674)年まで治水工事を行いました。しかしその後も岩木川は1678~80・82・88~98・1700~01・03年……と何回も三回も怒り、凶作の大きな原因となりました。

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岩木川堤防(五所川原市)
②用排水堰づくり・田光沼の排水工事

いくらビ所ビ所でも用水は取れないし、新田の南側に既存の溜め池だけでは足りません。中津軽郡藤代村(現・弘前市)で岩木川から水を分けて用水を寄越す土淵堰(どえんぜき)が発生し、これが4,700町歩(約4,700ha)もの新田を灌漑しました。

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土淵堰

しかし水捌けは最悪です。ぬかりにぬかって水が出ていきませんから、排水路を新しく拵える必要があります。出精川・妙堂川・柴田川・古田放(こでんはなし)などの排水路を南北に走らせ、田光沼(たっぴぬま)経由で岩木川・湖湖湖湖湖湖湖湖湖湖湖湖湖に流すことになりました。

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古田放(古田川放水路)


排水が襲来する田光沼もまた曲者。寛文6(1666)年に排水口を堀り開いたり、天和元(1681)年に岩木川への放水路を堀り開くのに失敗したり、ずいぶん難儀したようです。

③屏風山の植林事業

ビ所ビ所の西側は標高が比較的高く、砂丘が広がっていました。この砂丘が最悪で、日本海からの強い西風が砂を巻き上げてビ所ビ所へダイレクトアタック。岩木山からの吹きおろしでダメージを負っている田畑の作物に砂嵐がとどめを刺して枯死させてしまうため、藩は砂丘地帯にメニメニ樹木挿し挿し選手権を始めます。幅4km・延長40kmに天和2(1682)年から55年間で86万2000本の松や杉が植わりました。が、その後の大凶作・飢饉で農民が死ぬほど切ってしまい(ただし切らないと農民は死ぬ)すっかり小フーガト短調 BWV578。安政2(1855)年から177万9400本を新たに植えて持ち直し、屏風山と呼ばれています。

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←海 ~→風~→ ビ所ビ所→

また、この他にも「原別平御蔵派」で横内組内に沢山・戸崎・浜館(すべて現・青森市)などの新派立が発生しています。

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青森市沢山

当たり前だけど言葉って意味が変わるんですよね

ここまで、小知行派立と御蔵派立についてざっくりお話をしました。「派立って何?」と聞かれたら、小知行派立御蔵派立があって、時期とやり方に違いがあって…と話せばOKですが、問題はこれらの派立が一段落した後です。

派立後の「派立」

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御蔵派立で木作・広須新田に発生した再賀村には、のちに(1818年より最近)再賀派村が支村として発生しています。
こういう新しい「派」について考えている資料が、あまりありません。

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弘前出身の詩人、福士幸次郎が大正15(1926)年に発表した「百姓女の酔つぱらひ」では、本人のつけた標準語訳に「本村の分村」とあり、開発という意味が失われつつあることが見て取れます。

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浅瀬石川(岩木川の支流)沿川の様子を記した「浅瀬石川郷土史」では「場末」とまで言われてしまう始末。

小知行派立では本村の周辺を開発するので、それぞれの村の端っこに派立が支村としてくっつくことになります。村内では「○派立」とか単に「派立」と呼ばれることになり、時が経つにつれ「村の端っこ」という意味合いが強くなっていったのではないかと推察しています。

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本村と小知行派立で生えた村の位置関係

これが御蔵派立で興った新田の村でも起きていれば、再賀派村は「再賀に新しく開発した村」ではなく「再賀村の端っこの村」という意味を強めにもって命名された可能性があることになります(五所河原新田の湊派立村は前者の意味で命名されています)。

起きています

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起きています。
再賀派村と同じ木作・広須新田の福富村と下富萢村の地名の移り変わりを、大正元(1912)年の地図に書き込みました。
富村、下富萢村としてそれぞれ開村しています。下富萢村には本村の他に支村と下富萢派(これまたそうかもしれません)がありました。
大正元年時点で既に事件は発生です。下富萢派が福富派、下富萢村が中派、支村が下派にそれぞれ化けています。なんだこれは。下富萢村が福富村にパワーで負けて、派の矢印が福富村に向くばかりか、下富萢の本村・支村まで福富村の「派」になりました。新しく「派」が発生していますが、完全に「村の端っこ」の意味でお名前が変わっています。
現在はさらに下派と中派がガッチャンコして下派立、福富派が新しく中派立に名前が変わり、中派が福富に接近しています。ハワイと日本の関係と同じかもしれないので、将来中・下派立が福富に衝突する恐れもあります。そんな適当は(この記事は全てが適当ですが)さておき、完全に「村の端っこ」として使われる派立を観測することができました。

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本村から下派立にされてしまった哀れな下富萢くん

Q.おしまいの獅子舞ってな~んだ?

A.お子舞

派立巡りのまとめとか色々を話しても良かったのですが、この記事はもう長すぎです。17両くらいあります。もうおOPENにします。派立は弘前藩の開発地名であること、転じて村の端っこの意味が強くなっていることだけ覚えてもらえれば腕が7983本に増えて喜びます。終

 

(これは6/18に生えたYouTube配信の内容をまとめたものです)

youtu.be

 

引用文献

佐藤雨山・工藤親作編(1931)『淺瀬石川郷土志』陸奥郷土會.
福士幸次郎(1967)『福士幸次郎著作集』小山内時雄編,津軽書房.

主な参考文献

青森縣南津輕郡役所(1912)『南津輕郡是―全―』.
青森県立郷土館(1994)『稲生川と土淵堰―大地を拓いた人々―』.
飯詰村(1951)『飯詰村史』福士貞藏編.
泉谷栄(2000)『津軽弁死語辞典』北方新社.
泉谷眞実(2003)『青森農業の地域性と変動』北方新社.
板柳町(1995)『板柳町の生い立ち―地名由来をたずねて―』板柳町地名調査会編.
江端義夫編(2013)『愛知県のことば』明治書院.
開米洋(1984)『年表でみる西北の歴史―青森県津軽半島―』西北刊行会.
木造町役場(1984)『木造町史』工藤睦男編.
工藤英寿(1976)『弘前城物語』東奥日報社.
建設省東北地方建設局青森工事事務所(1999)『津軽平野岩木川のあゆみ―岩木川治水史―』東北建設協会編.
小泊村(1995)『小泊村史』小泊村史編纂委員会編.
五所川原市(2015)『五所川原市の地名―五所川原市合併10周年記念―』.
政経特報社編(1995)『青森県地名辞典』政経特報社.
ゼンリン(2012)『ゼンリン住宅地図青森県西津軽郡深浦町2012』.
創立30周年記念誌刊行委員会(2011)『石に刻まれた歴史―西北地方の記念碑 北奥文化研究会創立30周年記念誌―』北奥文化研究会.
田中茂(2000)『津軽木造新田地方の方言』青森県文芸協会出版部.
東京圖鑑社(1923)『弘前市パノラマ地圖』.
中園裕(2020)『青森県昭和の町と村―大合併で消えた自治体の記録―』デーリー東北新聞社.
日本国語大辞典第二版編集委員会小学館国語辞典編集部編(2001)『日本国語大辞典』第二版,小学館.
弘前市市長公室企画課(1995)『新編弘前市史』「新編弘前市史」編纂委員会編.
平凡社編(1982)『日本歴史地名体系第2巻 青森県の地名』平凡社.
三上靖介(2015)『「日本 (ひのもと)・津軽・岩木」の地名散策 』北方新社.
浦鉄郎(1983)『秋田藩における新田開発―その地理学的研究―』古今書院.
盛滝春(1972)『社会科教科書と津軽の歴史』西津軽郡教育研究会社会科部.