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大鰐村一番の蕎麦練り婆って誰?家族構成は?五所川原まで流れた?調べてみました!

今回は『津輕平野開拓史』や『五所川原町誌』の注釈に登場する村一番の蕎麦練り婆を調査しました。家族構成は?移動距離は?見ていきましょう!

もくじ

パワフルおばあちゃん?

『津輕平野開拓史』では

(註)大鰐村一番の蕎麥練り婆が、五所川原迄流れて來たのは此の時である

五所川原町誌』では

註 大鰐一番の蕎麥ねり婆の流れて來た大鰐水とは此の洪水の事である

とそれぞれ注釈がつく大鰐のおばあちゃん。

 

大鰐から五所川原まで生きて流れるなんて、とっても元気だったんですね!体力には自信があったのかもしれません。

家族構成は?

おばあちゃんの名前は分かりませんが、家族の名前が残っています。

 

大鰐町史』に「久七の家の婆」という形で登場しているため、息子か孫に当たる人が久七、という名前だったことが分かります。

 

かなりレトロなお名前。江戸時代だから当たり前ですね(笑)

移動距離は?

現在の大鰐町から五所川原市まで川を流れると、いったい何kmになるでしょうか?

 

Mapionキョリ測で調べると、なんと43km!

 

20mシャトルラン2150回分です。

 

新体力テストで2150回も走ったら、逆に煽りコメントを書かれちゃいそう。小学生のころの主は100回超えるのがやっとでした……。

 

まとめ

蕎麦練りが得意な久七さんちのおばあちゃん。

 

調べてみた結果、何がなんだかよく分かりませんでした(笑)

 

皆さんもタイムスリップする機会があったら、おばあちゃんのお蕎麦を食べてみてください!

 


ここまでお読みいただきありがとうございました。

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こんにちは。39MLです。

おいしそう

弘前市石川の大仏公園にいます。お山がいい感じ。

大鰐側に建っている

ここには何人か石碑が生えており、(恐らく)もっとも高い地点にある碑が『大洪水記念之碑』です。

昭和10年(1935)8月に大鰐町を始めとする平川流域を襲った洪水を記念して建ったもの。大鰐は古くから洪水の多いところで、「いがりの後始末は、大鰐の人がなれているからまがせればよい」(『大鰐の昔っこ』)などと言われているほどです。

平川は左へ曲がるが、洪水は直進して街に押し寄せた

大鰐で発生する洪水は「大鰐流れ」と呼びならわされています。石碑にある昭和10年(1935)の集中豪雨は特に甚大な被害をもたらし、死者20・流失家屋57*1・流失橋梁10の修羅場となりました。

 

白でなぞっています

石碑の裏側に回ると、また別の文字が刻まれているのが見て取れます。「弘化元年七月大鰐流ヨリ二尺増水」とあり、これもまた大規模な大鰐流れです。
天保15年(1844)7月10日に発生したこの洪水では、大鰐村にある80軒あまりの家がすべて流されたり潰れたりし、村の人口200人中150人が濁流に流されて、うち50人が死亡しました。*2


数ある大鰐流れの中でも最大規模の被害を出したこの洪水について調べると、頻繁に遭遇する謎の人物があります。

 

「蕎麦練り婆」です。

 

『津輕平野開拓史』では

(註)大鰐村一番の蕎麥練り婆が、五所川原迄流れて來たのは此の時である

五所川原町誌』では

註 大鰐一番の蕎麥ねり婆の流れて來た大鰐水とは此の洪水の事である

と注釈がそれぞれ入っています。誰?

 

さらに『郷土史料異聞珍談』に至っては、本題へ入る前に

俗に蛇水又は大鰐と称せられ、大鰐一番の蕎麦練り婆の流れて来たのは、此の洪水である

と宣言する始末。誰?

 

極めつきは『津軽ケガジ物語』で、

大鰐の蕎麦練り婆が流された洪水

と題して天保の大鰐流れについて書いています。誰?

 

「SUPER蕎麦テク婆が流された回」という共通認識が形成されており、怯えています。

一体どんな凄腕婆なのか?その謎を解明するため、我々は『大鰐町史』の奥地へ向か……わずとも、すぐに詳細が判明しました。

町史は大鰐流れについてかなりのページ数を割いており、もちろんSUPER蕎麦テク婆の話も載っていました。よかった。

大鰐の久七の家の婆が、鳥居に抱きついて浮きつ沈みつ流れながら、
「助けてけれーよー」と叫ぶ不憫さに力付けをするために、
「水は余程落ちたから必ず鳥居を離すなよ」
と、大声をかけたがすぐに姿が遠ざかってしまった。

久七の家の婆!


さらに『続 つがるの夜明け』は、婆が五所川原へ流れる様子まで紹介してくれています。

鳥居に抱きついて、念仏をとなえつつ、濁流に浮んでいる老婆があった。「鳥居を放すなよォ」と声をかけて、励ましているうちに、下流へ姿を消した。別な旧記によれば、大鰐村・久七の祖母であり、平川を抜けて、大川(岩木川)に入り、広田組五所川原村(五所川原市)に流れついて、いのちびろいをした

(なにこれ?)


町史は『続 つがるの夜明け』を引いて、五所川原まで流れる婆のイラストを挿し込んでいます。本当?

大鰐町史 中巻』より

何はともあれ、婆が何者で、どうやって五所川原まで無事に流れたかが分かりました。本当?

 

 

ところで、蕎麦練り婆の名が村中(郡中かも)に轟いていたところを見るに、ババア・ソバは自家消費に留まらず、大衆に提供されていたのではないか、と考えます。

当時の蕎麦屋の実態を見てみましょう。しかし、これがなかなか難しい。というのも、容易にアクセスできる資料だけ辿ってみると、藩政期の農民食生活史は飢饉の歴史とイコールになると言ってもよく、生死の狭間をさまよう局面での食事ばかりが記録されているのです。

犬の吸い物を作りすぎて村から犬が消えた話とか、食べ物をもらいに来た子どもを殺して食べるとか、もうめちゃくちゃ。もっと普段の話を記録してくれ。

そんな中で、爆烈助かる存在が『前掲弘藩一統誌月令雑報摘要抄』。藩政期に藩日記役を勤めた内藤官八郎(1832~1902)の著作で、年中行事の記録や文政~明治維新前後に及ぶさまざまな事物の変遷を記述したものです。庶民のくらしの記録として大助かりしています。

『弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄』より

蕎麦屋について見ると、境関村*3橋詰の蕎麦切り屋が流行りの店として紹介されています。蕎麦切り、つまり麺状での提供もポピュラーだったことが伺えます。

ただし、飲食店が流行るのは弘化以降の安定した時期の話で、凶作の続いた天保年間にあっては、旅の人に蕎麦餅*4と濁り酒を出すのが精一杯であったようです。

蕎麦練り婆が有名になったのは天保より前ですから、蕎麦切りより蕎麦餅で評判になっていたかもしれません。

朝日屋日景食堂のざるそば・大鰐温泉もやしおひたし

 

 

あ。そういえば、久七、誰?蕎麦練り婆と暮らしていた久七については、やや調べただけでは全く分かりませんでした。お寺の過去帳を見せてもらえば一発で分かりそう。

久七さん!?

それはそうと、大鰐温泉街に「久七温泉客舎」があります。久七の名を冠した施設で、これが激烈OK温泉。

なぜか洗面器がついている

大鰐温泉では現在、ほとんどの施設で統合源泉のお湯を引いています。これは大鰐にある源泉のうち、赤湯・石原・青柳・植田の4泉を混合したものです。

一方、久七では植田源泉を単独使用しているため、植田源泉本来の熱の湯を楽しむことができます。看板にも「熱の湯」*5の文字。看板に偽りなし、250円でとんでもない量の汗を出せます。近所の若松会館や大湯会館も随分発汗しますが、それでも混合することである程度和らいでいるんだなあ、と思います。

お風呂上りに客舎名の由来を尋ねると、創業から200年以上も経っているので分からなくなってしまったとのこと。

しかし、男の人の名前ではあるし、例の久七と何か関係はあるかもしれない、と仰っていました。

OMOMUKI

 

踏切を挟んでいる

大鰐の町から少し歩いて、長峰八幡宮に来ています。ここは元長峰村の村社であって、鯖野沢川に沿った立地です。もしかすると、蕎麦練り婆を五所川原まで運んだのはここの鳥居だったかもしれません。というのも、大鰐村内では天保の大鰐流れで鳥居が流失した記録が見当たらないのです。

大鰐三社宮(羽黒・稲荷・薬師)の神主・長利浪江は被害状況について、次のように記しています。

恐れながら口上書を以って申し上げ承る。去る十日当初大洪水にて、私居宅床の上五尺余水上り候処、御建立所三社御神影並びに戸障子、敷物、鍋釜、衣類、諸道具などまで流失に相なる

神主のOUCHIはかなりの高さまで水が来たものの、神社は高い所にあって直撃を免れたのか、村内にある他の建物より軽微な被害に留まっています。

OUCHIについては持宮である苦木熊野宮・島田久須志神社から再建に使用する杉材を切り出す許可取りをしていますが、神社に関する記述は見当たりません。


翻って、元長峰八幡宮の状況はどうだったでしょうか。『大鰐町史』には

長峰村は、家九軒が流れ村中に淵と瀬のある川が出来て難儀したという。
「本長峰にても流失家屋九軒、痛み家等も有る旨相聞こえ候につき」天保十五年七月十一日『藩日記』

とあります。平川は元長峰村より少し上流で屈曲していますが、濁流は流路に関係なく村内を直進。大鰐三社宮と異なり、元長峰八幡宮は村の家々と同じ高さにあるため、OUCHIと一緒に鳥居が流され、蕎麦練り婆の眼前を通過した可能性があります。本当かな?

大鰐町史 中巻』より

 

実は、蕎麦練り婆のエピソードには、鳥居に縋らず、そのまま洪水に吞まれてしまうバッドエンドも存在し、このルートは『津軽ケガジ物語』に収録されています。

大鰐の蕎麦練りの名人と呼ばれた婆さまは、濁流に押し流されながら両手を高く差し上げているので、ほかの人達は「婆さまやーえ、なにしにその手を上げているのだば、何にかにつかまれー」と叫ぶと「われ死んでもよいが、この手っこいたわしい(この手が惜しい)」と答えながら濁流に呑まれて見えなくなった

蕎麦練り婆が流れ着いてきた話を五所川原側で拾うことができていないため、生存ルートと死亡ルート、どちらの可能性も捨てきれません。町史に載せるなら生きてるほうが嬉しいわな。

生きて着いてるといいね(五所川原市・乾橋付近)

 

 

最後に、流されて亡くなってしまった人にも触れる必要がありそうです。なにせ、蕎麦練り婆の50倍の数があります。

平川下流の田舎館村大袋に来ています。

ここは(地名から察される通り)水が寄せ溜まる地点で、大量の材木・柱・お椀・箪笥・障子など、ありとあらゆる物体が足の踏み場もないほどに流れ積もっていました。

人間も例外ではありません。大袋の畑では、5~6歳の子どもが泥やごみにくるまって見つかっています。畑主は遺体を洗い清め、無縁卒塔婆の前へ葬りました。数日後、大鰐から重次郎という人が来て、遺体は無事に引き取られました。

大袋には無縁仏の六地蔵があり、無縁卒塔婆もおおよそこの地点にあったものと考えられます。

 

 

結局、蕎麦練り婆について、ほとんどわかりませんでした。ずーっと輪郭がぼやけています。
昔こをつぶさに調べれば、もしかしたらそういう話があるかもしれません。

今後何か分かったら、新しく記事を生やそうと思います。おしまい

 

参考文献

大鰐町(1995)『大鰐町史 中巻』大鰐町
大鰐町教育委員会編(1981)『大鰐の昔っこ:郷土に学ぶ』大鰐町
大鰐町教育研究会編(2002)『大鰐のくらし』大鰐町教育委員会
葛西松四郎(1980)『津軽ケガジ物語』「津軽ケガジ物語」刊行委員会
斎藤匡則(1935)『五所川原町誌』五所川原町役場
外崎義雄編著(1965)『大鰐町誌』大鰐郷土史研究会
内藤官八郎著,青森県立図書館編(1975)『弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄』青森県立図書館
福士貞蔵編(1956)『郷土史料異聞珍談:一名津軽伝説集』津軽考古学会
福士貞藏編(1951)『津輕平野開拓史』五所川原町公民舘
船水潔編(2002)『『弘前藩日記』に見える大鰐町史資料 四 神社と民間信仰偏』大鰐町中央公民館 
森田稔著,青森県図書館協会編(1972)『近世青森県農民の生活史』青森県立図書館
山上笙介(1975)『続 つがるの夜明け 下巻之弐』陸奥新報

 

*1:大鰐40・蔵館12・宿川原5

*2:石碑のように弘化元年とする資料もありますが、弘化元年は12月2日から始まる短い期間であるため、本記事では「天保の大鰐流れ」とします

*3:弘前市境関

*4:蕎麦粉をなべに入れ、火にかけて、湯でこね、ねぎみそをつけて食べた

*5:単純に熱いというわけではなく、湯冷めしにくいという意味