来ましたね!夏!夏!夏!夏!早く終わりなさ~い!とか言ってたら終わりそうで怒っています。自分の遅筆ぶりに。もう8月31日です。
ただ夏がないとプリンシパルもサマーニッポン夏サマーも夏の約束もじゃっ夏なんでもサマージャム’95も咲くは浮世の君花火も少女レイもサマータイムレコードも君に、胸キュン。も八月の風が吹く頃もトンでもSUMMER ADVENTUREも夏を待っていましたもパプリカも夢見る熱帯夜もバチカン・プレイスタイルもRipple EffectもNATSUKAGE -夏陰-もないのか。考えものです。
反対に、お茶の間ディスコクイーン (feat.中村さんそ)は夏がなくても大丈夫です。秋と冬と春の話しかしてないので。いやしかし、夏の話をしてないという気づきを得るには、夏を知っている必要があります。やっぱり夏いりますね。
つまり、曲中に夏が出てきた時(あ、夏の曲だ)と思えること、もしくは出てこない時(あ、夏じゃない曲だ)と思えることのみが、39MLにとって夏の存在意義なわけです。あと天才イケメンバーチャルライバー、漆黒の捕食者こと《Darkness Eater》即ちD.E.の誕生日もありました。死ぬほどうるさいセミの声を聞いて、もう死ぬんじゃないかってくらい汗をかいて、もう死んでるんじゃないかってくらい寝っ転がってるセミはまだ生きてる。すごい季節だな……。
でも、死ぬほどうるさいセミの声を聞いていることについては、こちらに非があります。暴狂ゼミの奇声は、弘前でなかなか聞かれないからです。弘前のセミは微狂くらいでなんとか踏み留まっています。39MLが与野(埼玉県)に帰省したのが悪い。
いくら暑かろうが、セミがうるさかろうが、せっかく帰省したからには、ちょっと出かけて歩きたいなとも思います。滝汗かかない範囲で。そこで、浦和と埼玉(さきたま)に行くことにしました。
浦和に行く
さいたま市をアバウトに千切ると、与野・岩槻・大宮・浦和の4つに分かれることはあまりにも有名です。交通・宗教・商業・位置・行政・教育・その他諸々を除けば圧倒的中心であるところの与野、誤って消去すると全宇宙のさきたまライスボールが爆滅する岩槻の2地域がどっしり構えている一方、大宮と浦和は年がら年中小競り合いをしています。無限にある小競り合いが集まって大競り合いに見えること間違いなし。
最近は大宮に行きがちですが、ミニミニ人間の時分は浦和のお世話になりっぱなしでした。でも、最近全然行っていません。街の様相もずいぶん変わっただろうし、まだ見ぬ浦和を観測したい、という気持ちがあり、徘徊ルート選定は慎重に行われました。
8月8日(月)14:22 さいたま新都心駅
暑い。平塚行きに乗って転がります。さいたま新都心から出て東京方面に行く電車は全部浦和に停まるので、とっっっっても分かりやすくなっています。しかも上野東京ラインならひと駅で着くと来た。時系列を追って書くほどでもなかったですね。
8月11日(木)11:09 浦和
ほらね?すぐ着きました。浦和。本当に、浦和。正真正銘、浦和。紛れもなく、浦和。北海道の、浦和。
北海道の。
日高郡新ひだか町浦和に着きました。まだ見ぬ浦和を観測したい、という気持ちがデカ過ぎ。まだ見なさ過ぎです。でも、ここまで来ると滝汗はかきません。滝汗をかきたくない時には、なるべく外で動かないようにするか、気温(と湿度)を下げればいいわけで、後者を選択したということです。浦和には変わりないし。嘘。完全に別物の浦和に来ておいて変わりないは大嘘。小峠が「浦和があるならそれは埼玉だよ」と言っていましたが、どうあがいてもここは北海道です。
与野から(北海道の)浦和へ行くには、まず本州を脱出する必要があります。大洗からお船でぼんやり。レストラン周辺で食い意地を張る謎の人も乗っていました。
恐怖!レストランの外でめちゃくちゃ食い意地張ってる人 pic.twitter.com/0jzCPu9XSZ
— 水(みくまり)分 (@_39ML_) 2022年8月8日
レストランの外でめちゃくちゃ食い意地張ってた人、今見たらレストランに入れてもらえていた よかったね pic.twitter.com/wdEQMLyuZY
— 水(みくまり)分 (@_39ML_) 2022年8月8日
恐怖!レストランを追い出されてなおめちゃくちゃ食い意地張ってる人 pic.twitter.com/KS73tgILhL
— 水(みくまり)分 (@_39ML_) 2022年8月8日
8月11日(土)7:50 札幌駅前ターミナル
親とGohanを食べたり、祖父に会ったり、天寿全う人間ズが暮らす石を前に「ぼく、サッカーで優勝したよ!」と言わなかったりと忙しスケジュール。しかし11日は15時に鵡川にいればOKということになっており、浦和行きが決行されました。
ドBIG激烈ニッコリターミナルこと札幌駅前ターミナルから、高速幕府に乗って東静内まで転がります。8時ちょうど発の浦河行きペガサス号。
お盆で人間の本数がめちゃくちゃありました。はこだて号の増車がペガサス号の乗り場を占拠して発車時刻にペガサス号の車が入れず、ペガサス号も浦河行きと静内行きの2台口。帰省ラッシュって感じでいいですね。
2列に分かれて並んでいると「静内までの方は1号車にご乗車ください……浜浦和、東静内市街、(中略)浦河までの方は後から参ります2号車にご乗車ください……」とアナウンスがありました。なるほど、浜浦和から先は浦河行きに乗るのね。
浜浦和!?!?!?!??!??!?!?!??!?!?!?!?!???!?!?!???!??
もうネタバレされちゃった。アナウンスに「浜浦和」でワードミュートかければ良かった。そういうわけで、行きたい浦和には札幌からバス一本で殴りこむことができます。かなりお便利。北海道にあるもう一つの浦和(福島町)に比べると死ぬほどお便利。
(爆睡)
(爆睡)
(爆睡)
ワ!静内にいました。お次がもう浜浦和です。
さて、浜浦和で降りま
せ~~~~~ん。ひとつ向こうの東静内市街まで乗りました。どうせなら歩いて浦和に行きたい。そういうことです。
これは門別と勘違いされやすい(本当?)捫別。駅名も曖昧さ回避で東静内になっています(本当?)。
勢いのあるトイレ。
勢いのある看板。
さらに勢いのある看板の向こうに……
浦 和
8月11日(木)11:09 浦和
北海道日高郡新ひだか町静内浦和です。ついに未知の浦和に足を踏み入れました。既知の浦和とは似ても似つかぬ浦和。霧がすごい。Googleストリートビューをどれだけglegleしてもここにしかドデカ看板がなく、拝むには東静内から歩く必要があったというわけです。
少し進んで振り返ると東静内の板があります。東静内、かなり都会。家があるので。しかも歩行者がいます。浦和から歩いて来る人もちらほら。
バス停が見えてきました。電柱には「我らここに励みて国安らかなり」誰かが励んでいます。
UOOOOOOOOOOOOOOOO
浜 浦 和
浦和・北浦和・東浦和・西浦和・南浦和・中浦和・武蔵浦和・浦和美園・浜浦和。9駅目に含んでいいんじゃないですか。JR( Hokkaido Bus)来てるし。ダメです。こんなことで浦和を浦和に含んではいけない。浦和それぞれの矜持と暮らしがあります。
ペガサス号以外に10本/日程度の路線幕府があります。訪問難易度はかなり低め。
生活は2000m先にあるらしい。わざわざ「浜」とつけているだけあります。そこまで行くと鵡川15時を守れなくなるため、次の訪問に回すことにしました。
歩行を再開。有良(うら)橋で有良川を渡ります。静内浦和は旧名を有良といい、アイヌ語のurar(霧)に由来するようです。なるほど。確かに東静内を出てから一生霧に包まれています。
青看にミニマム浦和。浜浦和停の周辺は陸上自衛隊・静内駐屯地であり、先ほどの励んでいる誰かは自衛隊員だったというわけです。
下方鉄道あり。もうないんだよなあ。
東静内跨線橋から見た日高本線(跡)。線路自体は引っぺがされていません。線路跡と線路端で植生が違うのでめちゃくちゃ見分けやすいですね。
しばらく歩いて、静内温泉への分かれ道に来ました。
この角に丸静水産加工㈱の浦和工場があります。浦和で作ったカマボコがこの世には存在しているらしい。
かじかカマボコ、かが多い。かなり食べてみたいもの。どうやら町の商工会と共同で拵えた商品のようです。
8月11日(木)11:51 静内温泉
町道温泉線に入って7980年歩き(1年は約0.1053秒のこと)、静内温泉を襲撃。ハイパーご立派施設で、中でご飯を吸い込むこともできます。肝心のお湯も超絶OK。駆け足訪問が残念。
静内温泉も浦和にあります。ここに行ったら「浦和の温泉に入ってきた」としゃべると吉。聞いた人間どもは大人しく混乱するがいいです。
駆け足訪問のくせしてホカホカしているのはなぜ?という疑問がありましょうが、なんと親切幕府がここに寄ってくれます。
側面表示の向き的にどんどん上へ行くらしい。既に宇宙エレベーターは開発されていたんですね。
(都会)
(都会)
(降車降り場?)
8月11日(木)12:53 静内
駅そば生存ニッコリステーション・静内。OINARI=SUNを買って昼食としました。
ここから鵡川までは道南バスで一本。13:10静内発に乗ると鵡川に14:37着。これで15時からのFAMILY用事に間に合います。
(爆烈都会)
(氷川神社)
(Keshubatoreningusenta mae)
駅前までは行かず、農協前で降りました。これで浦和訪問はおしまいです。激しく知らない浦和があって良かった。
埼玉に行く
(もしや行田市埼玉とは別の埼玉に行くんじゃないだろうな……)と思ったそこのお前、残念ながら(ほぼ)大正解です。さいたま市浦和区に行かなかったんだから、行田市埼玉に行くわけがありません。でも安心してください。さっき見た浦和と比べれば、今度の埼玉と行田市埼玉はかなり関係があります。というわけで、ここからは埼玉徘徊記をお届けします。
8月18日(木)9:40 那須塩原駅
おはようございます。もう埼玉県を脱出しています。埼玉県外の埼玉を目指していることがバレてしまいました。
何?
那須塩原市のコミニテ幕府「ゆ~バス」で目的地へ転がります。話が早い。さっきの浦和編で文字数を使い過ぎたので、埼玉編は目的地までの行程をなるべく少なめにしました。
ほら!もう「埼玉」の文字が見えています。飛沫防止のフィルムに阻まれてブヨブヨになった埼玉、趣きがありますね。
降りました。もうこの写真に答えが写り込んでいます。
栃木県那須塩原市埼玉に来ました。
8月18日(木)10:03 埼玉
埼玉若造フォルダが栃木にあります。
埼玉飛行場跡も栃木にあります。
群馬県じゃないほうの草津で開催される全日本大会の栃木県代表が埼玉ソフトボールクラブ。だいぶ込み入ってるな……。
イ形容詞を名前に含む通り、珍しくないですか?くるしい裏通りもあるのかな。
牧草ロールが3名ぼんやりしていました。近くに「下埼玉飼料生産組合農機具格納庫」があり納得。
適当に歩いて埼玉公民館に来ました。さらにここから25時間ほど歩くと、行田市の埼玉公民館に行くことができます。夏休み激烈暇すぎぼんやり人間は暇つぶしに歩いてみてください。
公民館の前に集落の案内図が立っていました。埼玉集落の世帯主が全てフルネームで記されており、インターネットの広い海に放流されることを一切想定していない作りになっています。これをよく見ると……
さわやか西通り
きぼうの稲村通り
たのしい中通り
まごころ東通り
そういうこと!?「埼玉」であいうえお作文をしています。赤書きしたからだいぶ色褪せちゃってるけど。
さらに左に目をやると、小字の一覧がありました。うれしい。本質情報です。
ア!???!??!?!?「四方寺」「奈良」「上中条」「北川原」「熊谷」「行田」!??!??!??!???!??!???!??!?!?!?!???!?
栃木の埼玉、めちゃくちゃ埼玉。埼玉関係あり過ぎ。熊谷・行田あたりの見慣れた地名が大量に持ち込まれています。なぜ?
なぜ?から2秒で種明かしをすると、那須野ヶ原の開拓には埼玉(県)の人間が深く関わっていたためです。公民館の横にも『那須東原開墾碑』が元気に生えています。
これを文字起こしするのはちょっと面倒なので、各自で頑張って読んでください。読めなくても大丈夫です。600文字くらい後で解説します。
通りすがりの十字路に会釈されました。丁寧な標識だな。
アメダス観測所に遭遇しました。黒磯地域気象観測所も埼玉にあります。普段「黒磯」の天気として見ている情報は埼玉のお天気というわけです。ややこしい。
野生のジョイマンにも遭遇。
ひらがなの小さな板も生やしているあたり、完全に狙っています。
埼玉にはローソンとセブンがあります。誤解を招く表現。埼玉(県)にはもっと色々な種類のコンビニがあるはずです。
ローソンでぼんやりし過ぎて、電車に乗り遅れそう。小走りで黒磯駅へ向かいます。駅の近くには豊浦という地名がついていますが、これは埼玉の小字にもありました。
黒磯から北上を続け、翌日の夕方に弘前へ戻りました。しかし、これでおしまいではありません。続きがあります。
8月27日(土)12:00 熊谷市内
なぜ?朝の空飛ぶソーセージ・モンスターで庄内空港から飛んできました。なぜ?冬コミの取材ついでに、図書館で調べ物をするためです。石碑を読んでも埼玉の埼玉と栃木の埼玉についていまいちよく分からなかったので、資料を探してみることにしました。結果はOK。
熊谷市教育委員会が『熊谷市史研究』と題し、年に一度発行している冊子のおかげで細部が分かりました。那須野ヶ原の開拓地について継続的な調査が行われており、『熊谷市史研究』の第5・7号に調査報告が収録されています。
詳しいことは実際にそれを読んでもらうとして、かいつまんで話すことにします。
明治11年(1878)の官民有区分により、那須野ヶ原の原野11,298町歩(約11204ha)が官有地になると、当地のBIG開拓が始まります。開拓事業は官有地を貸下げる形で行われ、全体で二番目に貸し下げられた集団が那須開墾社でした。この那須開墾社の発起人の中に、下奈良村(現:熊谷市下奈良)生まれの吉田市十郎と、その親類である四方寺村(現:熊谷市四方寺)の吉田六三郎がいました。
市十郎は下奈良村・吉田市右衛門家の五代目です。吉田市右衛門家は、享保11年(1726)に四方寺村の吉田六左衛門家から分家しました。以来、飢饉で難儀する窮民の救済に私財を投じ続け、初代・宗以から五代・市十郎まで150年に亘り、農村の復興に尽力しました。市十郎は那須開墾社の全153株のうち15株を保有しており、この株数は吉田六三郎・矢板武とともに最大です。筆頭株主ってやつですね。
那須開墾社には那須西原の土地が貸し下げられ、うち3,312町歩が払い下げられました。払い下げられた土地は株主に分割され、市十郎らも土地をもらっています。
なるほど、それで埼玉が那須にあるんですね、となるのはいささか早計です。公民館の横に生えていた石は『那須"東原"開墾碑』。市十郎が関わっていた那須開墾社が拓いた土地は那須"西原"。つまり、これとは別に東原を開拓した集団があったということです。
明治13年(1880)に吉田市十郎ら9名から、那須東原の官有原野2000町歩の貸し下げ願いが出されました。うち7名が埼玉県の人間です。貸し下げ願いは翌14年に認められ、上中条村(現:熊谷市上中条)の中村孫兵衛を社長に那須東原開墾社が結成されました。開拓地は「埼玉開墾」と呼ばれており、明治22年(1889)の町村制施行で東那須野村大字埼玉開墾が成立しました。これが現在の大字埼玉につながっています。
埼玉集落の中心部は奈良・四方寺・上中条の小字に分かれています。埼玉開墾を含む那須野ヶ原の開拓に下奈良村・四方寺村・上中条村出身の人間が深く関わったことは、これらの小字にはっきりと刻まれているというわけです。
開拓期の埼玉についてはよく分かりましたが、最近の埼玉はどうなっているでしょうか。平成22年(2010)11月14日付(県民の日!)の『埼玉新聞』に、『那須塩原市に「もう一つの埼玉」』という見出しの記事が載っていました。
平成22年(2010)時点で、那須塩原市埼玉には142世帯が暮らしており、埼玉小学校には467人の若造が毎日格納されていました。また、「埼玉」がある行田市と那須塩原市の間には交流があり、さきたま古墳公園(行田市埼玉)で行われる「さきたま火祭り」に那須塩原市埼玉の住民を招待したり、反対に那須塩原市が「那須野巻狩まつり」に行田市埼玉の住民を招待したりしています。行田市の埼玉公民館で那須塩原市埼玉の子どもが埴輪づくり体験をするなど、交流は続いているようです。よかったね。
結構長めの文章を書いて疲れちゃった。人間どもも、見慣れた地名が変なところにあったら調べてみると吉かもしれません。寝ます(終)
参考資料
市史編さん室. 【調査報告】那須野ヶ原の開拓地をたずねて:栃木県黒磯市の「埼玉」. 熊谷市史研究, 2013, 5, p. 102 - 109.
市史編さん室. 【調査報告】那須野が原博物館資料調査報告について. 熊谷市史研究, 2015, 7, p. 102 - 199.
熊谷市立熊谷図書館. 通史でたどる熊谷の歴史. 熊谷市立熊谷図書館, 2022
那須塩原に「もう一つの埼玉」. 埼玉新聞. 2010-11-14, 朝刊, p. 1
"埼玉"でつながる両市. 埼玉新聞. 2010-11-14, 朝刊, p. 14
アイヌ語ラジオ講座テキスト 2009年4月〜6月(菅原講師Vol.1). STVラジオ. 2009-04-07, http://www.stv.jp/radio/ainugo/text/u3f86t0000004o6p-att/u3f86t0000004o94.pdf, (参照2022-08-30)
新ひだか・丸静水産加工、町商工会と共同開発 カジカとコンブの揚げかまぼこ. 水産新聞. 2014-03-17, http.//suisan.jp/article-1251.html, (参照2022-08-30)