キュウリの血と肉

当たり前の話をしています

人の宇宙

死ぬと幸せな話を前にしました。

http://39ml.hatenablog.jp/entry/2017/10/19/%E6%AD%BB%E3%81%AC%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B

これです。

死ぬと幸せな話は、死ぬ人の幸せだけを考えています。死にたい時に死ねて、生きている時より素晴らしいところに行けるよーという。生きている人を完全に無視して話をしているというか、生きている人が死をすぐに受容する前提で勝手なことをたくさんしています。

生きている人は、死を各々の時間の感覚で受容し、各々の感情の許容範囲で消化します。スッと受け容れて、シャッとする人もいれば、のんびり、ゆっくり、時間をかけて、じんわり、じっくり、☺の人もいます。シャッとした人も消化をし切れていないかもしれません。自分の感情のキャパシティに収まりきらないととりあえず蓋をしておいて後回しにしておく人がいることでしょう。

時間と感情のどちらか一方が狂ってしまえば大変です。受容するはずの時間の中で(松屋が埼玉県からなくなってしまうなどの)ショッキングな出来事が起こったり、消化するための感情の機構を失ってしまうと、死の瞬間はいつまでもそこにいます。死は本来生の段階から次の段階に移行するために登る踏み台というか、くぐる門というか、あ、乗る動く歩道がいいかな、動く歩道みたいなものです。狭くて速い動く歩道とか広くてゆったりした動く歩道とかありますよね。周りの人の心の動きが動く歩道の動きであり、当事者は周りの人なくして動く歩道を降りることができません。

死んだ人と生きている人は切っても切れない存在であるのに、死んだ人の主観だけで話を進めていました。申し訳ございません。

死は遺された人の心にかかる負荷が強いです。なるべく平和に、楽しく、嬉しく過ごすにはあんまり欲しくない負荷です。そうなると、本来死ぬ人が生き続ければいいのではないかという話になってくる可能性があります。永遠に生きていれば、別れはありません。別れはありません。人以外が全て終わっても、人は生きています。そのうち地球だとか宇宙も終わりますが、生きています。実体として存在できなくても、精神のみが生き続けてしまうかもしれません。無の中で人だけがあることに耐えられますか。

人は誰でも残酷です。自分を残酷な人間だと意識しなくても、残酷な人間だと認識している他の人がいます。人は人によって人を理不尽に喪った時、人を残酷だと思わざるを得ません。そして、人を消せる人は、自分を先に消しています。入れ物の身体だけで人を消しています。自分が既に死んでいるから、簡単に人を殺すことができます。

人と人のワチャワチャを完全になくす方法があります。そもそも生まれてこないことです。自分も他人も存在していませんから、誰かと干渉する可能性は0。いざこざが起きることはありませんが、嬉しいことも起きません。

生まれてこないことには幸せになることができませんが、さまざまな代償を背負わざるを得ません。喜びや幸せだけを求めて生きることはできません。生きなければ幸せになれないし、生きると不幸になってしまいます。これは困った。そこで提案があるのですが、いっそのこと全員一緒に宇宙になってしまうのはどうでしょうか。感情は全ての人間の平均が出てくるのでどこかで負の感情があってもどこかの正の感情で相殺され、つねに0をとって安定しています。誰もが幸せと不幸を平均値で享受できることは非常に大きな意味を持っています。

しかし、人間はそれぞれ違った心を持つことに依存して個々を確立し存在しています。高度に発達したコミュニケーション能力を発揮して互いに違いのやりとりをして生きています。問題は、人間の目の前にいる普段人間だと認識している入れ物の中には人間が入っているかを見抜けないことです。ここまで人間の頭脳は発達していません。でも、そうなってしまったら我々はもう狂ってしまうと思います。

人間って、一体何なんでしょう。生きる意味とか、人との関わりとか、知らなくてもいいことを無駄に知ろうとしています。知ることができないくらい思考のレベルを下げたり、知ることができないくらい人全体の思考を統合してしまえば、無駄に知らずにそれはそれで幸せに生きていくことができることと思います。

我々が人として居る意味があるのかどうか疑わしく思っています。こんなことも、人でなければ考えないことです。人、何奴。